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おとなの森は甘くない〜森のキライなところ教えてください

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おとなの森は甘くない
       〜森のキライなところ教えてください

深い笹やぶに、身動き取れずにパニックになり、蜂やあぶに追いかけられて、逃げ惑う。木の根や草の根につまずいて派手に転び、お尻が沈んで立ち上がる事もままならない。初冬や春は、身を切る様な冷たい風に歯の根が合わず、夏なら夏で、容赦なく照り付ける日差しに、頭がくらくらする。作業もひどい。持たされた鎌で笹を刈ろうにも、太い根曲がり笹は鋼の様に硬くて切れる気がしない。刈り払った木や草を、両腕に抱えて登る急斜面では、身体中が痛む。私は森が大嫌いだった。
京極町に山林を買ってから夫は、手入れの度に私を連れていった。あきれる程に役立たずなくせに、ぶつぶつ文句を言い、すぐに「もう、帰ろう」と言う、私はまるで子供だ。それでも彼は、あっぱれな事にキレもせず、あきらめもしなかった。転んでも手は貸さず、道具の使い方が下手だと、なじる事もしなかった。そして10年がたち、今でも私は夫と「山」へ行く。もし、私の夫が彼でなければ、私は、今の私にはなれなかっただろう。

 

最近、木育イベントのワークショップで、質問コーナーというのを設けてみた。お客さんに、木や森の事について、個人的な好みや思い出を話してもらおうという趣向だ。私が真っ先に思い付いた質問は、「森のキライなところを、教えて下さい」当たった人は、一様に驚く。こんな場所で、こんな質問?気まずそうに、おずおずと話し出す。何かのワナ?質問者はしかし、にこにこ笑って、答えを受け止めるだけだ。「虫がいや?・・・蜂とか蚊とか?・・・地蜂に刺されたんですか?・・・まあ、大変でしたね」
テレビで、自然体験のシーンを目にする。レポーターの感想は、なぜ、あんなに似通っているのだろう。「・・・時間がゆっくりと流れています」「日頃の悩みが嘘の様に・・・」
そして多用されるのが、いま流行の「いやし」という言葉だ。本当にそれが彼(彼女)の心の声なのだろうか。人は自然から出て都市を造った。暑さ寒さなどの苦痛から逃れて、命を脅かす森の危険から逃れて、人は生きる為に森を去った。人間は生物としては余りにも弱い。それでも、森が好きと言わねばならないのはなぜだろう。

 


自分の心を探ってみて分かったのは、罪悪感がある、という事だ。自然は嫌い、森なんかいやだ、と言うことへの罪の意識。社会的に良いとされるものを否定して、協調性のないエゴイストになる事への恐れが、紋切り型のナチュラリストを生み出していく。
そういった感情は、森へは連れて行ってくれない。先の質問箱に入っていた別の質問。
「森へ行って何をしたいですか?」見るからに都会的なその女性は、さっきまで黙々と作り物に没頭していたが、びっくりしたように私を見て、何と答えたものかと戸惑っているようだった。やがて一言、「キャンプ」と、答えられた。「それは?」子供達が小さい頃、家族であちこち行きました。でも、子供が大きくなってからは・・・。「バーベキューのしたくは誰が?」の問いに、「主人が」と答えられた。「わぁ、すてきな旦那様ですね」と言うと、その女性はふわりと笑われた。多分、その時の光景が目に浮かんだのだろう。
愛する人との思い出をともなう時、森の記憶は宝石のようにキラキラと輝く。「これからは、お二人でキャンプなさったらいかがですか」と言うと、「そうですね、そうします」と、幸せそうに微笑まれた。あの女性は、旦那様とキャンプへは行かないかも知れない。けれども、例えば夕食の時、昔のキャンプの思い出を夫婦で話し合う事ができるかも知れない。思い出は二人を森に連れ帰ってくれるだろう。

 

もう気が付いているだろうが、私は今では森が好きだ。時間をかけて、私は森と親友になった。森には美しいものがたくさんある。目を奪われる大きな、あるいは小さな光景。そしてそれ以外にも、私が森を好きな理由がある。都市に住む私たちは人工物に囲まれて暮らしている。そしてその全てが、人間の生活に益する事を目的として、作られている。たとえば、手元にある、ありふれたお菓子のパッケージでさえ、はじめて買ったひとでも、ちょっとみれば、どこをどうすれば簡単に開くか、すぐ分かるようになっている。ドアノブ、地下鉄の案内表示、電気製品、みんな、一分の隙もなく、人の為の工夫に満ちている。時々、それら全てのものが私を取り囲み、いっせいに大声でサービスを申し出ている様な気がして、息の詰まる思いをする事がある。ベルトコンベアに乗せられた様な毎日の生活の中で、自分はこれで良いのか、何をすべきか、すべきでないのか、と考えて、不安になる。そんな時私が思うのは、森の事だ。

 

森は人への意図で造られてはいない。一木、一草に至るまで、皆勝手に伸び、勝手に枯れる。人の事など、一切考えてはいない。では森は、意図のない、無軌道な世界なのだろうか。
そうではない、と私は思う。森には森の意図がある。それを説明するのはむずかしい。ただ、木が生まれ、枯れ、そこに又、別の木が育つ為の場所が用意される、その事をみても、疑いようがない、と感じる。森はあきらかに一つのサイクルに組み込まれている。そういった考えは宗教を持たない私にさえ、生きとし生けるものの、命のいとなみの総意といったものを感じさせ、畏怖の心をおこさせるのだ。

 

むずかしい事になってしまった。事はもっとかんたんだ。美しい人に会った時、私は自分が美しくない事に失望する。あふれる才能を目にした時、それが自分のものでない事に絶望する。そんな私を、森は苦しめない。あるがままの美しさを、惜しみなくさらして、「わたしはこうだ。おまえもそれでいいんだ」と教えてくれる。なぜなら、おまえも、わたしもひとつだろう?おまえも万物のいとなみの一部なんだから、と。
私は森に導かれ、失っていた自分の心からの望みを取り戻す。「森からのお願いです。私をキライって言ってください。それでも、私のところに来てください」
誓ってきっと、森はその、きびしい表情を解いて懐をひらき、あなたの心をいやしてくれるでしょう。

木育マイスター 齋藤 香里