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お年寄りの膝に抱かれて〜ねえ、教えてよ。手しごとの事

子供たちに伝えたいこと〜言葉なんていらない

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お年寄りの膝に抱かれて
      〜ねえ、教えてよ。手しごとの事

最近、クラフトの体験イベントを実施する機会が多くなった。企画から自分で手掛ける事もある。そんな中で、タイトルをどうするかで頭を悩ませた。〜づくり、〜体験、〜クラフト。どれもしっくりこない。試しにクラフトを辞書で引いてみた。<特別な技術、あるいはそれを使ってつくる工芸品。>とある。やはりしっくりこない。私達が作ってもらうのは、もっと素朴で身近なもの、歴史の下支えがあり、昔から親しまれてきたものならばなお良い。そんな訳で<手しごと>と言う言葉に落ち着いた。これなら、生活感たっぷりで、私達のイメージにぴったりくる。では、手しごとってどんな感じ?
そう考えた時に体験に来られたお年寄りの姿が頭に浮かんだ。今よりももっと、シンプルできびしい時代を生きてきた人達。手でするものづくりが娯楽ではなく、生きるための手段だった頃の記憶を持つ、お年寄りに接して考えたことを、ここでは述べたい。木や森の範囲から少々脱線するかもしれないが、手しごとについて考える事は、木育の中で重要な一ピースとなる予感がするから。

デイサービスの手しごと

以前、お年寄りが集うデイサービスに勤めていた時、週に二回の作り物の担当は私だった。出し物を考え、家にたくさん眠っている材料から、必要な物を引っ張り出して来ては、夜なべして準備する。全て持ち出しのボランティアみたいなものだったが、お年寄りも、私も大いに楽しんだので、それでよかった。
そんなある日、若い職員の二人が職場結婚すると云う。普段から孫のように接していたお年寄りは色めき立ち、ぜひお祝いを、と詰め寄られた。では、お金ではなく何か手づくりのもので心づくしのお祝いをと提案し、皆でパッチワークキルトを作ることになった。お年寄りから職員まで、全員に小さなピースを作って貰い、それを縫い繋げて大きなキルトに仕立て上げる。フレンドシップキルトと言って、アメリカに古くからある、お祝いや記念のキルトだ。個人に贈られる時には、正に人生の門出を祝って、一人の人の為に皆で作りあげたという歴史を持つ。
お年寄り達は夢中になった。作り物時間だけでなく、暇を見つけては針を動かした。もし完成出来なかったら、後はわたしが・・・というもくろみを遥かに超えて彼等は頑張った。そして、とても楽しそうだった。みんなで寄り集まってキルトする事を、<キルト・ビー>と云う。おしゃべりで蜂の巣のように賑やかだから。振り返ってみて、お年寄りがそれ程の力を発揮してくれた理由は単に作るのが楽しいから、というだけではないと感じた。私はそこに<手しごと>の本質があると思う。その事については後に述べたいと思う。

こどもとお年寄り

ともあれお祝いのキルトは出来上がり、二人の結婚式に彩りを添えた。若いカップルは感動し、一生の宝物だと言った。それは今、彼等の新居の一番目につく所で使われている。(壁に飾ったり、大切にしまい込んだりしない事と、私は注文を付けた。)
最近、若奥様にお会いした。彼女は今、別のデイサービスで働いている。彼女も手芸好きなので、「どう、何か作ってもらってるの?」と聞いてみた。すると彼女は、「たいした物はできません。うちの利用者さんは、あの方達みたいにハイレベルじゃないから。」と答えた。「何言ってるの?あの方達だって最初からあんなに出来た訳じゃない。針さえ持てなかった。それでも何か作りたいって仰って、簡単なものから始めて、やっているうちに段々凝ったものが作れるようになったのよ。」そして、こうも言った。「あの方達が若かった時代は、今みたいに何でも手に入らなかったから、みんな手作りしていたの。着る物も食べる物も生活に必要な物をね。だから、お年寄りのスキルっていったら、私やあなたなんか足元にも及ばないのよ。」彼女は驚いたようだった。

手編みニット

高齢になると、なかなか新しい事が覚えられなくなるものだ。反面、若い頃に身に付いたもの、とりわけ手や身体で覚える、<手続き記憶>と言われるものは比較的のこる。忘れて出来なくなったように見えても、再体験する事によって、甦る事が多い。
ではなぜ、お年寄りは、手しごとをやめてしまったのか。例えば手編みの靴下。子や孫は、おばあちゃんが編んでくれた靴下を、穿かなくなった。お店に行けば、安価で流行のものが簡単に手に入るからだ。加工食品もスーパーで買って来る。必要な時に必要な分だけ。そんな中でお年寄りは、自分が手づくりしたものが、時代遅れの価値の低いものと思ってしまったのではないだろうか。売られているものが良いものだと。そうして、手しごとの習慣は失われてしまった。家事の軽減の為に様々な道具が生み出された。流通システムも整備され、便利な世の中になった。しかし世の移ろいはそこで止まらなかった。もっと、もっと、と、まるで暴走列車のように、世の中は進み過ぎてしまったのかも知れない。未来の社会を想像するとき、誰しもがSFまがいの風景を思い浮かべる。そして驚く事にその内かなりの部分が、現実になりつつある。文明はどこまで行くのだろう。そしてその便利をあがなう為に人は、長時間家族と離れて働き、あるいは時間を持て余して何かを探しに行く。それが、本当に豊かなくらしと言えるのだろうか。

白樺樹皮細工

手しごとをする時、お年寄りの手はやさしい。樹皮細工のワークショップをした時、誰にとっても初めてであろう素材を、一番上手に扱ったのは、お年寄り達だった。はじめて手にする樹皮テープを、彼らはまるで、これから友達になろうとする人と、はじめて会話する時のように、慎重に思いやり込めて、編み上げていった。そのゆっくりとした手しごとの様子を見守りながら、私は、今この方は、何を感じておられるのだろうと、思った。手しごとのリズムは、ものを考えるのに適している。呼吸に似た繰り返しの動作。心地よい刺激と費やされる時間の長さのなかで、作り手の思いは様々なところをさまよう。他の何ものにも替えることの出来ない、深く豊かな時。
働いていた時、あるお年寄りが、若い頃に、古いセーターをほどいて靴下を編んだ話をしてくださった。「本当に寒かったから自分のを編みたかったんだけど、弟に編んであげたの。朝起きたら穿けるように夜なべして編んだのよ。」少なからぬ時間を費やし、複雑な手順を踏んで、手しごとは成される。そしてその内の多くが、自分のためにではなく、人のためにされている。そんな時、作り手は贈られる人のことを考えているのだろう。様々な思いが手しごとの品物のなかに込められていく。それは無数の祈りの言葉となって、強い力で使う人を守ると想像してみる。弟に穿かれた靴下の温かさは、毛糸の温かさだけではない。姉のまごころが温もりとなり、生きる力を与えてくれるのだ。人と物とのつながりは、人と人とをつなげてゆく。「ねえ、お願い、お話して。手しごとのこと。それがどんなだったかを。そして教えて、私たちがどうしたら、ほんとうに豊かに生きられるかを。」

木育マイスター 齋藤 香里