音(学)の風景
先日、全道「緑の少年団」交流大会の手伝いで「道民の森」に宿泊した夜のことです。4人の男が狭い部屋で寝床を並べたのですが、夜中からは予想通り「トドのハーレム」状態、仕方なく持参のウォークマンで大好きなドビュッシーを聞きながら、睡魔の再来を待つことにしました。
音や音楽は、時に、映像や写真以上に懐かしい情景を鮮明に蘇らせてくれるものです。高校時代、ドビュッシーの小作品を集めた富田勲のアルバム「月の光」を聞いて、その音の持つ多彩な色彩に圧倒されました。以来、ドビュッシーはたちまち私を魔法にかけてしまいます。
もう30年以上も昔のことです。大学のクラブの仲間数人と、定山渓ダム建設予定地での地質調査のアルバイトで深い山林に分け入りました。かなり堅くなってきたとはいえ、雪のまだ深い月の夜のことです。
発破(ダイナマイト)作業が終了するまでの数分間、決められた場所でじっとしているのですが、針葉樹、広葉樹の混じった北の森は、月明かりが煌々と雪に映えて息を飲むような美しさです。全く静謐な世界なはずなのに何だか美しい調べが満ちているような何とも不思議な空間だったことを今でもはっきりと思い出すことができます。
《月の光》を聞くと、あのおとぎ話に出てくるような情景が蘇ってきます。
これもかなり昔のことですが、道東の弟子屈町に宿泊したその夜、友人と月の摩周湖を訪れました。湖面を照らす月明かりが波に揺れています。摩周岳(カムイヌプリ)と小島(カムイッシュ)の黒いシルエットのすごさに言葉を失いました。彼岸への旅立ちは、こんなところを通って行くのかもしれません。魔界のようなこの風景は《月の光》には重すぎるようです。、神の怒りに触れて数百年もの間沈んでいた大きな寺院が、突如、鐘の音とともに湖底から浮かび上がってくるような情景、《沈める寺》は、まさにこんなイメージにぴったりの曲です。
自分の葬儀(出棺時)には、会場に《夢》を流すよう、娘達には日頃から言ってありますが、この曲も実にたくさんの情景を蘇らせてくれます。
最近では4年間を過ごした十勝の道有林が思い出されます。
カツラの新緑を通して林内に降り注ぐ初夏の光は、森の中も清冽な小川も、本当にエメラルドグリーンに染めてしまいます。いつの間にか、カラマツの梢からのぞいていた青空が厚い雲に覆われると、葉に当たる雨音がだんだんと大きく響いてきます。そして遠い雷鳴・・・・。
森でコクワやヤマブドウを食べ、川で魚採りに熱中する子供らの歓声や活き活きとした瞳も忘れられません。彼らが去った後、過ぎゆく夏と子ども達を惜しむかのように両岸に響いていた蝉の声、帰り道の夕焼け・・・ みんな夢のまた夢といったところでしょうか。
去る6月の「木育ファミリー」総会後に開かれた「ブルーレイバン」のコンサートは、当別町の、今は廃校となった木造校舎で開かれました。初夏の爽やかな陽光と風の中で、すばらしい一時でした。ところで、ここで使われていた楽器がとても気になっていました。筒状の金属の片方に耳を当て、筒を傾けると、中から流水が金属に反響して、ボコボコと音がします。何とも懐かしく心が解放されるような良い響きでした。
いろいろ調べた結果、これは民族楽器演奏家、丸山祐一郎さんの創作楽器「水カンリンバ」であることがようやく判りました。作り方もインターネットに出ていますが実に簡単です。楽器としては、リングプルを鍵盤として利用するようですが、私はあの不思議な水音だけで十分、日々繰り返される、気の強い嫁と姑(母)のつまらないバトルに憔悴しきった心を癒しています。
老若男女を問わず、肉体的にも精神的にも問題のある人たちが増えているような気がしますが、これには食の乱れだけではなく巷に氾濫する不快な音も影響していると言えば言い過ぎでしょうか。「木育」のめざすもののひとつに「五感とひびきあう感性」がありますが、自然の中の良い音に親しんだり、美しい音楽を聞くのもりっぱな「木育」なのですね。
勉強を終えた娘がゲームをやり始めたようです。ピッツ・ピッツ・ピー・・
さっさと退散して自分の部屋に戻ると、掘尾さんからもらった炭の風鈴が鳴っています。例年になく蒸し暑い日々が続いていますが、立秋を過ぎて吹き込む風にもどこか秋の気配がしてきました。
(注:月の写真2枚は当時のものではありません。)
空知総合振興局(旧空知支庁)林務課 種市
利彦
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