木と森のノンフィクション・ライター西川栄明さん(弟子屈町在住・木育ファミリー会員)が、2009年12月朝日新聞「北の文化」欄に掲載された原稿に加筆してくださいました。2回に分けて紹介します。
育て!木育 (1)
◆木育って、何?
「なんか、ミシミシしてんのがいいんだ」「学校の中に入っても、自然がいっぱいな感じがして気持ちいい」
築70年以上経つ木造校舎の小学校で学ぶ子どもたち。てかてかになった階段の手すりをいとおしそうにさすりながら話してくれた。
「山の匂いがする。山育ちだからわかるんだ。やっぱり気分が落ち着くね」
老人ホームの利用者たちが、地元のボランティアたちに車椅子を押してもらいながら近くの森へ出かけた。日ごろは引きこもりがちなお年寄りも、森へ行けば表情がぱっと明るくなる。
「大学に入るまで、どんな木でも、伐るのは悪いことだと思ってた」
林学の授業で間伐の意味を知ったという農学部の学生。小さいころから木が好きだったけど、森のことはよく知らなかったと気づいたそうだ。
「木育(もくいく)」という言葉をご存じだろうか。木育は、2004年に北海道と道民による「木育推進プロジェクトチーム」で検討された新しく生まれた言葉だ。プロジェクトの報告書には木育の理念がまとめられている。
「子どもをはじめとするすべての人が『木とふれあい、木に学び、木と生きる』取り組み。それは、子どものころから木を身近に使っていくことを通じて、人と木や森との関わりを主体的に考えられる豊かな心を育むことです」
この考えは大切だと思うし、共感も覚える。ただ、かなり大きな概念で、木育に携わる人たちの間でも立場によって微妙に捉え方は異なる。
私も以前から木育には興味があったのだが、中身をよく理解していたとはいえない。子どもが木の遊具で遊ぶ写真を木育イベントの案内でよく見かけても、それは木育のほんの一面にすぎないだろうと感じていた。06年に国がまとめた森林・林業計画では、木育は「木材利用に関する教育活動」と位置づけられた。木材利用に絞り込まれていることに少し違和感を抱いた。
◆木育は「つながり」がキーワード
そんな折、木工デザイナーで木育ファミリー代表の煙山泰子さんと『木育の本』を刊行する機会を得た。執筆を機に、「木育とは何か」というもやもや感を払拭したいと思った。そして、全国各地の様々な木育事例と思われるところを取材すると、そのほとんどは、木育という言葉が生まれるずっと以前から行われている活動だった。「あっ、言われてみれば、これも木育ですね」との反応を示す実践者もいた。
例えば、ドイツなどで盛んで最近は日本でも広まっている、自然を利用した教育活動の試み「森のようちえん」。校有林の木を伐り出して中学入学時に自分の机と椅子を作らせる学校。高校生が枝打ち職人や木地師などの「森の名人」から話を聞いて文章にまとめる「森の聞き書き甲子園」等々。冒頭の3つのシーンは、木育の取材中に見聞きしたものだ。
取材を通して意を強くしたのが、木育には「つながり」が大事だということだ。森に入り樹木に接して感じる自然の素晴らしさや豊かさ。一方、日常生活で接する木材や木工品から得る、利便性や心地よさ。自然としての樹木、生産財としての木材はつながっており、昔から人間はそれを知った上で、森を保ちながら材を得る親密な関係を築いてきた。その関わりを通して、人間も自然の一部であり多くの生命と共存していることを実感する。これが木育の取り組みのベースにあるのだと。
◆木育は、肩ひじはらずに日々の暮らしから
木育の中でも私が重視したいのは、森や木の役割や現実を正しく知り伝えていくことだ。農学部学生が思っていたように、木を伐るのはすべて悪いとは限らない。でも、そのあたりが誤解されていることもある。思い込みや間違った情報を基に、環境問題が語られていることもある。
例えば、今話題のCO2削減問題。森林は炭素を蓄える役割が期待されるが、木が伐られてもそれが製品になって何百年も使われれば、その間は炭素を蓄え続ける。こうした点は案外知られていない。最近、「環境にやさしい」との理由で樹脂製の箸を使う外食チェーン店などが増えている。でも、石油が原料の箸よりも、国産間伐材で作る割り箸の方が環境にやさしいと思うのだが。
木育を冠した木工教室があれば、森を歩くイベントもあるが、そうした単体の活動だけでは十分ではなく、森、木、人のつながりや文化的背景など、川上から川下までの大きな流れを視野に入れた取り組みこそが、木育には必要だろう。
でもまあ、まずは肩ひじはらずに、森を歩いて木を愛(め)で、みそ汁は木のお椀によそい、木の椅子に座って本を読む。そんな日々の暮らしを過ごすことが、木育のとっかかりだと思っている。
西川栄明(ノンフィクション・ライター)
|